hgkks’s diary

集スト被害者を被害妄想のキチガイ統合失調症に仕立て上げる方法

 

 

非言語コミュニケーションの中に、準言語コミュニケーションというものがあります。言葉を発する際の強弱や長短、抑揚などの語調は、言語に伴うことから「準言語」と呼ばれており、準言語でメッセージをやり取りすることを「準言語的コミュニケーション」といいます。

 

今回ご紹介するワークは、準言語コミュニケーションだと思いますが、通常の準言語とは異なるので、初めてご覧になる方には興味を持っていただけると思います。

 

**********【話しかけのレッスン】**********

 

4~5人(聴き手)が各々好きな方向を向いて床に座ります。そこから2~3メートル離れたところから別の一人(話し手)が、聴き手の一人に声を掛けます。自分に話しかけられたと思う聴き手は手を挙げます。

 

 

文字に落とすとシンプルですが、聴き手が「話しかけられた」と思って手を挙げることは多くありません。聴き手の感想は様々ですが、大まかには次のような感想が聞かれるそうです。

 

(1)独り言を言っているみたいとか、誰か近くの人と話しているようで、自分とは関係ないと思った。(話し手の声が届いていない場合)

 

(2)話し手が一所懸命相手の方へ踏み出して話しているのに、声が聴き手の前でストンと落ちたり、声が戻って行ったりする。(言葉の語尾(最後)に、すっと顎や身を引く場合)

 

(3)声が散らばって誰に向かって話しているか分からない、何か上の方で声が広がっているだけで話しかけられている気がしない。(相手に集中していない場合)

 

(4)背中にどんと来た、背中が暖かくなった。(相手に声が届いた場合)

 

(以上、竹内敏晴「『からだ』と『ことば』のレッスン」、P.24-26、P.32-34)

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通常のコミュニケーションでは向かい合って話す、つまり相手を見て話しているので、自分に話しかけられているということが分かります。でも、上の感想を読むと、声という振動、或いはエネルギーが相手に届いているか、ということを意識することは極めて稀で、私たちのコミュニケーションをより良くするヒントがありそうです。

出典:話しかけのレッスン(竹内レッスン)

ttps://ameblo.jp/kyoukansurukarada/entry-12234368599.html

 

生きもののような声――話しかける、とは、ただ声が音として伝わるということとは別の次元のことだということだろう。聞き分けているうちに、声とは、単に空気の疎密波という観念によって表象されるような、抵抗感のないものではないことが実感されてくる。肩にさわった、とか、バシッとぶつかった、とか、近づいて来たけどカーブして逸れていった、というような言い方で表現するほか仕方のないような感じ――即ち、からだへの触れ方を、声はするのである。声はモノのように重さを持ち、動く軌跡を描いて近づき触れてくる。いやむしろ生きもののように、と言うべきであろうか。――本書より

出典:「からだ」と「ことば」のレッスン 著:竹内 敏晴

 

このレッスンの特徴は、言葉が聞こえたかどうかや、意味がわかるかどうかではなく、呼びかけられたかどうかを問題にする点、言い換えると、自分に声が「届いた」かどうかを問題にする点にある。

この声が「届く」と「聞こえる(理解する)」ことを区別することは、最初聞き手達にとって難しいようだ。だが興味深いことに、竹内が適宜指示を出しながらレッスンを行っていくと、徐々に「右の方には触れたが、カーブして向こうへ行った」「前で落ちてしまった」というような意見が出るようになり、そのうちにレッスンを見ている人にも声の「軌跡」が見えてくるそうだ。

この「届く」と「聞こえる」の違いはどのように生じるのだろうか。竹内によれば、そもそも呼びかけるということは、

1)相手に声で働きかけて相手を変えること

2)相手にどう変わってほしいかをはっきりと持っていること

3)他の誰でもないその人に呼びかけること

を意味し、これらが満たされることで声が「届く」という。単に他者との客観的距離を基準にして、モノのように声を放り出すような、例えば5メートルなら5メートル分の声量で話すというような仕方では、上記の3点が意識されていないため、声が届かないということになる。たとえ話し手がムキになって声を張り上げても、うまくいかないのである。

出典:呼びかけのレッスンについての考察

ttp://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81006989.pdf

 

サリヴァン「コミュニケーションとは何よりもまず言語的だという思い込みは極めて重大な誤りではなかろうか。述べられた命題の本当のところがなんであるかをおしえるのは、言語にともなう音である。

 

別な例をあげれば、重い障害のために語ることが困難な子供。寝たきりで生活する上で全面的な援助を必要としていて言語的なコミュニケーションが難しい。とくに呼吸が浅い子供の場合、声もなかなか出にくい。だが彼らと付き合っていると、やはりからだ全体が多くのことを語っている感じることがしばしばである。その時々の自分の心身の状態、天候の状況、周りの様子、関わってくる援助者の態度ーこうしたことをからだをとおしてとても繊細に受け取っていることが伝わってくる。

出典:語りかける行為と心理臨床 原口芳明

 

面接者が何を語っているかという内容よりも、どんな態度や口調で喋ってくれたかという「語る行為」のほうが印象に残ることも少なくない。これはサリヴァンが、面接において相互に語り合う中で、言葉の意味内容よりもーまたそれとともにー言葉の「音声的」な響きを重視していたことにも関係するものである。

前田重治(1999)

 

休憩を挟んで次は「呼びかけ」のレッスン。5人ほどが目をつむって座っている前で、一人が特定の誰かに呼びかける。呼びかけ役は経験者が挑戦。「眼を開けてください」「こっちへ来てください」。誰も自分に呼びかけられた感じがしない。呼びかけ役が両手を後ろに組んでいるという姿勢が指摘された。その点を注意した上で、私に声が掛けられた。私は脇で聞いていて、目を開けているので、自分に向かって発せられたことは視線で判る。しかし、声は届いたけれども、その人のところへ行きたくないという気持ちが湧いた。彼女は顎を上につき出していて、どこか私を拒否するようなところがあったからだ。

別の人に呼ばれたときは、今度は身体が反応したけれども、彼のところへ行きたくはなかった。彼の物腰がどこかこわばっており、彼に近寄ることに安心感が湧かなかったからだ。他者に呼びかけるということ、関係を求めるということは、まず自分が心を開き、無防備になって、相手を受け入れる気持ちになっていなければいけないようだ。

最後に「春が来た」をもう一度歌う。最初に歌ったときとは全然違って、今度は大きな声が安定して出たので、自分でも驚く。自分がうまく歌えないのは、いつも身体や気持ちがどこかこわばっているからなのだろう。それがいまはすっかり安心しきっているのだ。それは、自分に対する自信と言うよりは、自分がまるごとこの場に受け入れられているという感覚に助けられて生まれてくる安心だという気がする

出典:竹内敏晴「からだ」と「ことば」のレッスン体験記1(Apr. 3 '00)

ttp://d.hatena.ne.jp/Andrey_2Ko/20100310/1268226893

 

こうした話は演劇の世界では当たり前の話です。

 

声のなかにこのような準言語的コミュニケーションを含ませ、届ける相手を絞り込めば、他の人には気づかずともターゲットのみに意図を伝えることができるわけです。

 

嫌がらせという意図もです。

 

声だけでなく、その他の騒音、ノイズキャンペーンも同様ではないでしょうか?

 

他の人には気にならない、聞こえてもそれほど気にしない。

ある人にだけ気になる。

 

音を出す側が届ける相手を絞り込めば容易なのではないでしょうか?

 

「声が届く」には以下の3点を満たすことが必要でした。

 

1)相手に声(音)で働きかけて相手を変えること

2)相手にどう変わってほしいかをはっきりと持っていること

3)他の誰でもないその人に呼びかけること

 

悪人がこの手法を知っていたらどのように悪用すると思いますか?

こうした訓練、または教育をしておけば、嫌がらせはより効果を発揮するでしょう。

 

逆にこの演劇訓練の話が一般の人の間でも周知されれば、集スト被害者への理解が増すことになります。

 

あなたも電話口で言葉は丁寧だがあからさまに嫌味で横柄で失礼な態度を取る輩に遭遇したことがあるのではないでしょうか?

これは上記の準言語コミュニケーションによって私達がそう感じているからです。

 

集ストの意図は、あらゆる場で対象が「まるごと否定、拒絶」されているように思わせること

また、レッスンの中では「自信というより、この場で自分がまるごと受け入れられている感覚」 と体験談が語られています。

 

この逆をやったら人はどうなるでしょうか?

つまり、この場で(地域や職場、社会で)対象をまるごと否定、拒絶する。

 

はい、言うまでもないですよね?

あなたが集スト被害者であれば、あなたが今まで感じてきた感情がそのままの答えになります。

 

集団ストーカーの意図はこれでしょう。

 

そしてそうした心理状態になれば、音に敏感になるのも至極当然です。

動物の本能です。

 

しかしこうした集団からの否定・拒絶感を受けていない一般の人は被害者の気持ちが分かりません。

 

これで被害妄想のキチガイ統合失調症と呼ばれる人の出来上がりです。

 

つまり、そうなる手順をきちんと踏めば統合失調症を意図的に作ることができるということです。

この手順は準言語的コミュニケーション、もしくは非言語的コミュニケーションの積み重ねなので、他者はもちろんのこと、本人でさえも気づくことは困難なはずです。

集スト加害者はどこか演技がかっている

加害者側はどこか演技がかっていると思ったことはありませんか?

台本通りに嫌がらせをしていると感じませんか?

 

その直感は正しいはずです。(そしてその直感を否定する便利な道具が統合失調症です。)

 

なぜなら前述のように演技の訓練をすればより確実に嫌がらせを"届ける"ことができるのですから。

 

ターゲットが嫌がれば嫌がるほど演技の腕前を評価されるとしたら?

嫌がらせ実行犯をそうやっておだてているとしたら?

雇うお金もいりませんよね。

 

俳優女優になれる、有名人になれると知ったら喜んで人を苦しめ追い詰めるのではありませんか?そうしたエサで釣れる愚かな人間はいくらでも見つかるでしょう。

その気になった愚かな実行犯の大根役者をこれでもかと見てきませんでしたか?

猿もおだてれば木に登ります。

 

某カルト宗教信者が芸能界に多い理由もこれで納得がいくのではないでしょうか?

嫌がらせで演技を磨いてきたという人物もいるのではないでしょうか?

 

追記: 指向性スピーカーを使う方法もあります。

higaikakusan.hatenablog.com